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「私は居ない」を一般人の視点から考察した
私は覚醒者とか宗教家じゃないので、凡人の視点から語らせてくれ!
私は間違いなくココにいる!
私が、ここに居る実感がある
どう考えても、
私は ココに いるでしょう?
多分、私の心の位置は、脳ミソに住んでる気がする。
この感覚がピッタリだから、「私は居ない」と覚醒者さんに言われても、多分、それは真実なんでしょうね?と思うのだが、心の底から信じることが出来なかった。
覚醒者さんの中でも尊敬する阿部俊郎さん、雲黒斎さん、その他の有名ブロガー覚醒者さんが、私は居ないと言っても、凡人(非覚醒者)から言えば
私は居ないなんてバカ言ってんじゃないよ。
と言いたいのが本心でした。
だって、私がいるとしか思えなかった。
だから尊敬している覚醒者さんの言う事でも、信じたくても、信じられない話だった。
私も10年以上の坐禅、瞑想の生活の中で、時々、思考から離れるようになり、私って、お空の雲のような途切れ途切れの存在だと思うようにはなって来た。
私とは幻想なのか?単なる思考に過ぎないのか?
と薄々感じる事もあったけど、我に帰ればバカ言ってんじゃないよー。でした。
私が考えてる?
私が考えて、このブログを書いている
これは当たり前の中でも、特に当たり前の話だと思う
けど、それを考えた、主体となる私は実在するのか?
冒頭〜ここまでを私が考えたのか?
それとも、その思考自体が湧いただけなのか?
思考それ自体が湧いただけで、思考した私は居なかったのでは?
それだけかも知れない。
記憶力
もしかしたら、私が考えたと言う記憶があるだけでは無いか?
一過性全健忘の時(記憶喪失のとき)
いわゆる記憶喪失の一種で自然に治る不思議な記憶喪失にかかった事がありました。
私の場合だと、発症してから最初の三日間が症状のピークで、完全に治るまで2週間くらい要しました。
その間は、現実なのか?夢なのか?そんな妙な感覚で頭が変でした。
私の寿命は1秒間
あの一過性全健忘中の私は、病院の看護師に言われた事を3秒後には忘れてた。
記憶容量は1秒程度だった。
CT検査室は、この後ろの通路を行って、突き当たりを左です。
そこで検査してから、またここに戻ってくださいね。
とか、看護師から私が説明を受けたらしい。
しかし、私は看護婦さんに背を向けた瞬間、つまり1秒後には、何も憶えてなかった。
指示を受けたのは私なのに、少し離れた場所、処置室の外側にいて聞き耳立ててた妻の言う通りに歩いただけ。
看護婦さんは妻の付き添いがあることは知らなかったはず。
だから妻がこの病院に来て居なかったら、指示を受けた事すら忘れた私は、院内のどこにも行けないし、指示されたことも忘れていたから、どうなったのか?大きな病院で行方不明になったかも?
今思えば、彼女はなんて冷たい看護婦さんだろうか。
看護師を弁護すると
妻曰く、私は、見た目には正常な人だったらしい。
妻には私が普通じゃないと分かるけど、他人から見たら分からない見え方らしい。
私とは?
看護婦さんとの会話は、その瞬間はそこに事実としてあった。「CT検査室は、この後ろの通路を行って、突き当たりを左です。」
そして、1秒後、私が後ろを向いた時、後ろの院内の景色もそこにあった。
そして、院内を歩く時の足の感覚もある。
でも、それを行い、感じているはずの私は、常に連続しては居なかった。
一秒単位で入れ替わり、新しい1秒間だけの私になる。
そんな病状だったのを思い出した。
思考、感情、身体の感覚は瞬間的に実在するが、連続的に存在する私だけが居なくて、瞬間ごとの思考だけが湧き、感覚だけがあり、歩く行為だけがある。
それだけだったのかも知れない。
毎秒の思考は湧くが、それが毎秒入れ替わる。
私は居なかった
思考が湧いて消える。次の1秒でまた湧いて消える。
この繰り返しだったのだと思う。
思考の飼い主としての私がいなかった。
つまり思考を行う主人としての私が連続的に実在して、次々と思考を行うスタイルが普通だと思ったが、事実はそうではなかった。
湧いてくる思考だけがあった。
私が居るとしたら、毎秒生まれては消えていた。
これって、湧いては消えた思考そのものが私である証拠。
私とは思考それ自体であり、思考の持ち主では無い。
多分、本当の私、とか、全体、とか覚醒車が言うのは上記の一秒単位の単なる思考としての私ではなく、普通に私だと思っているのは単なる思考だったんだと。
私と言う感覚を考察
思考をする思考の持ち主となる私がいて、昨日も、今も、明日も、確固たる主体となる私が継続的に存在するなら、記憶障害で、その私の連続性が途切れたら変だ。
やっぱり私は元々いなくて、健康な時には私が連続的にいるような気がするのは記憶の効果だったんだと思う。
あの記憶障害時の私が、毎秒単位に新しい私が生まれたような実感。
記憶障害中には、私が秒数の分だけ、何人もいた別人の私たち。
私がいるなら、あの時の私の寿命は1秒間なのか?
記憶喪失で、私の連続性が途切れると言う事は、私とは単なる記憶の事で、今風に言えばデーターでしか無い。
そのデーターを見ている存在感には連続性がある。
ここまでブログの言葉を書いているのは、私だけど、私だと思い込んでいる記憶があるだけで、記憶力がなくなると毎秒単位の短い私になる。
その短い私は、記憶の範囲内(いつの記憶があるかデーター次第)の私だから、私ってデーターに過ぎないなあと思う。
ちなみに、今、記憶障害が再発したら、このブログは他人のブログにしか見えなくなるはず。
じゃあ、この肉体は私じゃないのか?また今度考察しようかな。
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