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思考(ラベル)を見ていた
最近は、共振の法則実験中なので、最も大切にしているのは、思考を思考として見る離れた視点。
今にいる意識的な時間を大切にしている。
簡単に言えば、今を大切に扱うようになって来た。
すると「ありがたいなあ」「お蔭様なんだな」「感謝が湧くなあ」そう思える事ばっかり目に付くようになった。
それは特別に現実が素晴らしく展開したからと言うよりも、今までは今目の前にある世界を良く見えてなかったのだと思う。
シャワーを浴びる時なら、シャワーヘッドを見たら、シャワーと言うラベル(言葉、思考、記憶)を見ているだけで、そのものは見てないに等しい状態。
シャワー後にタオルを使う時も、タオルと言うラベル(言葉、思考、記憶)を見ていた。決してその物は見ていなかった。
思考が被った世界ばかり見ていた
引き寄せ実験に入る前の日常では、今何をしている最中も、何を感じている最中でも、頭の中では常に何か考えている状態だった。
考え事に忙しくて、目の前のリアルでは無く、ラベル(記憶、言葉、アバター)を見て済ませていた。
それは、目の前を見ているようでも、頭の中では上の空で、物自体は見てないのと同じ。
リアルな世界を見ているようでも、本当はアバターを見ているだけ。
- シャワーを浴びていても、シャワーの気持ち良い感覚を味わうこともせず、今日起こった出来事や、この後の予定を考えている。
- 車に乗っていれば、今運転中の好きな車を操る楽しさや素敵な夕陽などの景色を楽しめば良いのに、何時頃に到着するかな?着いたらどうするか?さっき言われた事とか、さっき割り込まれた車の嫌な思い出を考えている。
- ブログの為に大好きなiMacの前にいる時、Macの楽しさ便利さを味わうこともせず、こんな事(ブログ)やっていても、ビジネスに役立つわけでも無くお金につながってはいない罪悪感を感じていたりする。
無意識に思考し、思考同化してばかりだった
思考同化して無意識な電波を垂れ流す事のデメリットは、その間どんな共振周波数になっているか全く無意識である事。
つまり望む現実にチューニングなど出来てなかった。
意図的に思考(周波数・チャンネル)を選びたい。
思考を客観視可能なのは、今の視点だと思う。
坐禅の視点が引き寄せの視点では?
今この空間の視点から思考、感情、感覚を眺めるのが坐禅視点。
その坐禅状態では、思考はまるで、青空の中に流れて来て、変化して、消えて行く雲のようで、自分の所有物では無く、勝手にやって来ては消える自然現象のような物。
思考(雲)が、現れては消えるだけ。その坐禅視点に在れば、思考を意識的に選択して、思考が発する共振周波数を客観的に見ることが出来るはず。
- 「引き寄せが可能となるのは今この瞬間」
と引き寄せ本で言われるのは、この坐禅視点が必要だと言う事か? - 今自分が発する周波数(思考、感情)が良い感じか、望ましくない感じか?
気付いて、意図的に選択可能するのは、この視点のみ。 - 思考自身は思考を見る事は出来ない
- 思考がまるでラジオを聴くようになる意識の視点。
見えて無なかった、今の素晴らしさが見えてくる
今、目の前のリアルな景色、雲の切れ目から見るようになったら、引き寄せが成功しなくても、
今、すでに、物凄く恵まれている事が、とても沢山見えてくるようになった。
今ある、ありがとう
具体例として、今日スポーツクラブのシャワーを浴びている時に見えた、感謝してしまう素晴らしいポイントはこんな感じ。
- スポーツクラブに通えているお金と時間と健康状態に感謝
- ジムのシャワーが清潔で気持ち良い事に感謝
- シャワーのホースは寒い朝でもしなやかな素材で扱いやすい(昔のホースは酷かった。最新の技術に、製造してくれた人たちに感謝)
- 雪の日なのに適温で運動出来るジムエリア(早朝に来てボイラー付けたりありがとう)
- ジムのマシーンが清潔で調子良く保たれている(掃除や手入れするスタッフありがとう)
- 心臓が動いているけど私が動かしている訳でもないのにありがとう
- シャワーが心地良く感じることが出来る皮膚がある(肌荒れしているとシャワーが痛い時もある)
- 尿が出る
- 便が出る
- 血液が循環して全身が機能している
こんな一瞬で出てくる有難いなあ。感謝したいなあなポイントだが、思考(雲の中)の中に同化していると、全然見えなかった。
当たり前としてシャワーを使い、当たり前としてスポーツクラブの数時間を過ごす。その全てが、目の前の全てが素敵な事ばかりなのに、感謝を感じる事は稀だった。
思考は常に、過去を思い出し、この先を考えて、いまこの瞬間に、こんなに有難い事に恵まれている事を見逃してしまう。
目に映る全てが例外なくお蔭様
こうして、ありがとう、感謝、ばっかり見えてくると、例外なく全てが他力でお蔭様ばかり。
自分1人、自力で済まされる事は、一個もなかったのだと思う。
- 血液は自力で回してない
- 心臓も自力で動かしてない
- 皮膚は自分で作った覚えはない
- ジムエリアを暖かく保っているボイラーは私は作ってないし、管理もしていない
自我の反論
ジムに行く会費(お金)は、私の力(財力)で払った訳だから、上に書いたような感謝したいポイントの数々は、私の自力、努力、お金で得た結果ではないか?
ジムに行くお金は私が支払ったから快適に使う権利は自力だ
でも、本当に自力なのだろうか?
そのお金はどこからやって来たのか?
- 私に仕事(依頼)が来たから(仕事のおかけ)
- その仕事(お金)を回してくれた客がいた(依頼主のおかげ)
- このビジネスを産んだのは、私では無く先人(先人のおかげ)
- 商売道具があるから仕事出来るが、道具は私の自力では作れない(メーカーのおかげ)
- 客が私に仕事を依頼したのは、その手前のお客の影響(見たこともない人のおかげ)
一見自力と思えるような会費で勝ち取った快適なジム生活だが、何一つ、純粋な自力はない。
自力はなく、全てお蔭様、で、ありがとう、で、感謝が溢れてくるばかり。
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