思考(自我)と意識の関係を考察

思考(自我)と意識の関係を考察。観照視点(ただ観る視点)を目指していたけど、そうしている最中もずっと意識が思考を干渉していた。

ベロはベロの味を味わえない

昨日のブログ(壊れかけのラジオ)で書いた事

思考を消そうとしても、思考を消そうとする思考が強化されるだけ。

思考は、私の支配下ではなく、私も思考それ自体だから止められる訳がない。
目玉は目玉自身を見れない、舌は舌の味を味わえない、同様に思考も思考自身をコントロールは出来ない。

今日になってビックリした

ベロ(舌)はベロ自身を味わえない。だから思考も思考をどうこうする事が出来ない。
この事実を当たり前のように書いたけど、今日、読み返したら驚き。

思考は思考自身を見る事も出来ないはずだが、私は常に私の思考を見ている。
私が思考そのものだったら、思考を見ていられるはずが無い。

だが、思考を常に見ている事に気づいた!
と語っているのは、思考そのもので、俯瞰した意識ではない。

このブログを書いている自我も、もちろん思考そのものだし、思考そのものだと気が付いているよと自覚しているのも、思考を観察する思考だし。

でも、それら、次から次と現れては消える思考をずっと観ている存在感。

思考なら思考を見れないはずなのに、ずーっと観ているこの感覚は思考では無いはず。

気が付かないだけで、意識はずっと私(自我、思考)を観ていたんだなあ。

観照視点(ただ俯瞰して観る)で生きたいと思っていたけど、そのセリフも思考(ラジオ)であって、そう言っている間も意識はずっと観照状態でラジオを聴いていたんだなあ。

サルの一言

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サル船長とウサウサ航海士
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