目次
五人とか十人とか中途半端なグループで過ごすのが一番不得意だ。
- 私は、何をすれば役立つか?
- 私は、どんな発言すれば良いのか?
- 私は、浮いてないか?
- 全体の会話が聞き取れない(音は聞こえても内容が入らない
- だから会話に入れない
- 何をしたら喜ばれるのか?考えても出遅れてしまう
良く言えば、私は他人に気を遣える優しい人間なのか!
気遣いで疲れるけど、その気遣いの目的な自分の保身だった。
ちょっと気が付いてしまった。
他人に気遣いしているようでも、実は自分の事ばっかり守ろうとしている。
- 私は、何をすれば良いのか? →→→ 何をしたら私は凄いと思われるか?
- 私は、何を発言すれば良いのか? →→→ 会話に追従したいが上手く出来ないから寂しい
- 私は、浮いてないか? →→→ 孤立したくない
- 私は、気が利いているのか? →→→ 気が利かないと言われたくない
私は自分を良く見せたいと一生懸命。
でも、その努力虚しく、目の前の状況に適切な反応が出来ない。
更に頑張る。
出来る人的な発言してみたい。
役立つ行動がしたい
なのに、努力しても結局できない。
役立ちたい、気が利きたい、
だから、気を使っても上手くゆかないのかも知れない。
本当は他人に尽くしたいのじゃなく、自分を守りたいだけ。
まごころスタートじゃない邪心だから、人の為になる事が思い浮かばないのかも知れない。
自分の事を守りたい、良く見せたいと、努力するも、動機が不純だからか?
虚しく空回りして、疲れだけ蓄積する。
こんな感じの内容だったと思う。
人生半世紀以上、努力して全く進展しない部分だけに、心屋さんの名言は間違いない真実だと思う。
後者は、その性質が全体視野のリーダーじゃないから、そもそも全体の役立つ事を考えるのが不得意だったのかも。
私が居なかったらそもそも疲れない。
それは確かなんだが、坐禅、瞑想の最中であれば、多少はそんな気になることもある。
私は幻想、私は言葉、私は記憶、私は青空に浮かぶ雲、そんな感じもするけれど。
日常において私は確かに存在している状態で私が中心に生きている。
意識が思考(私)に同化している。
実在ではない私を守ろうとして疲れるアホらしさ。
実態がない私の為に私が疲れるアホらしさ。
私が居なければ、そもそも疲れないのか。
そこに気が付いたら少し楽になった。
今日から実験したいと思った事。
覚者は私は幻想だと言うけれど、やっぱり凡人だから私がいる。
なのに、自分を守る為に、一番大事な自分を二の次にして他人にばかり気を使って疲れるなら。。。
自分を守る為の保身から、自分を疲れさせ本末転倒がここでも発生中だった。
一番大事な自分にこそ、ダイレクトに気を使ってあげようかな。
そもそも私という人間は、他人に気遣いは出来ない後者(心屋さんの著書参照)と言うタイプらしい。
私は後者(心屋さんの言葉)で、後者は前者に努力しても買われないらしい。
他人に気遣いが出来ない後者でも、
自分にだけは気遣いが出来るはず。
一番大事な存在である私にだけは、最優先で気遣いをやってあげようかな。
後者な私だって、自分になら上手に気遣い出来るはず。
そう思っただけでも、少し肩の荷が降りた気がする。
少しだけ心がリラックスした気がする。
これが大晦日の私の思い付き。
- 大事にする順番は私を第一にしよう
- 他人に気遣いするなら、心底他人に気遣いする(保身ではなくて)
以前にブログか何かで心屋さんの文字で気に入って保存してたのが、こちら。
今年の課題にぴったりだから、目立つところに貼っておこう。
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