目次
何気ない日常が大切に思える変化
特別な出来事が、素敵な人生体験だと思っていたが、今では、むしろ、普通の日常こそが感謝であり、とても大切に思えている。
特別なイベント例
今まで幸せの条件にしてた特別なイベントの例だが、
旅行、ドライブ、温泉、ハイキング、撮影旅行、欲しかった憧れの高級品を買う、百貨店で素敵な洋服を買う、デパ地下で高級食材を買って自宅で妻と食べる、美味しいワインを飲む、映画を見る、誕生日、結婚記念日
などなど。
このようなイベントは、日記やFacebookを書く人だったなら、是非とも書きたい特別なイベントだ。これが人生には沢山ある人が幸せな人だと思って来た。
最近、奈落の底に落ちてから
ここ最近は別記事にまとめた通りで、仕事やプライベートで大きな問題を抱えて、解決の目処もなく、かなり自信をなくしたり、落ち込んだり、不安になったりする事を絶賛体験中。
しかーし、なんと、奈落の底が深いからこそ、光が無い世界だからこそ、今まで見えて来なかった光が沢山見えて来た。
そこから、逆に、そんな災難が有ったからこそ、日々に感謝が溢れる体験に繋がっていました。
超ラッキー
この感覚は、一時的な気休めな幸福感だと思っていたけど、とりあえず、翌日になってますます安定して加速しているようです。
感謝が溢れる
昨日からそうだが、今日は更に感謝が日常に溢れている状況で、どこもかしこも目に映る全てに有難い。
それこそ、手、足、歩く事、階段がある、トイレがある、水が使える、電気、物、あらゆる事に感謝が溢れる状態です。
奈落の底に落ちる前なら、嫌いだった物、不満ばかりだった場所、それすらも有難う。
こうなって周りを観ていると、今まで人生の幸福の条件だと思っていた物は、、、
特別なイベントでは無く、これまでは目にも止まらなかった、日常にこそ、本当に失いたくない、そんな大切な事に埋もれていた。
そんな感覚になりました。
日常の感謝
日常には感謝がギュッと詰まっている。数え切れない感謝。
今になって気付きました。
実例をあげると
下記のように日頃は全く気付いてない、あって当たり前の事こそが有難う。
今、ある事に深く感謝すべき事が多い。
- 心臓が動いている
- 血液がある
- 皮膚がある
- 内臓
- 目がある
- 呼吸がある
- 脳波がある
- 記憶がある
- 感覚がある
- 生きている
- 空気
- 水
- 地面
- 太陽
- 歩ける足がある奇跡(痛かったら歩けない、寝ていても痛い)
- 空気がある奇跡(空気は自分で持ってこれない)
- 空気が吸える体調(喉風邪引いたら空気吸うだけで地獄)
- 痛みのない体調(虫歯とか身体の一部でも痛みがあったら、普段の痛みのない体なんて意識してない時の素晴らしさが分かるけど普段は見えない)
- 水が飲める体調(胃痛、喉の腫れ、内臓病、何かあったら水を飲めるとは限らない)
- 水がある(海外には飲める水が貴重な国も多いらしい)
- 配偶者が元気(明日もお互いに生きている保証もない)
- 妻との何気ない会話(お互いの元気と時間が有ればこそ)
- 指が動く(当たり前過ぎるがブログが書ける指がある。でも私は指の動かし方も本当は知らない)
- 瞬きが出来る(これが出来なかったら?想像もしない事だが、目が潤って身体の外側の波長を感じる事が出来る)
- 家の中にいる(今は冬だから外は寒くて大変だ)
- 高齢の両親が元気(色々とうるさいし面倒な存在でもあるが、普通の生活が出来る健康状態でいてくれるのは奇跡的。お陰で私はブログ書いたり仕事に出たりする事が出来ている)
- 頭に浮かぶ事、次に行動する事、一つももれなく素晴らしい事に溢れているのが日常だと思う。
この日常の素晴らしい感謝項目に比べると、旅行や美味いワインなどは、無くなっても困ることもない。人生のオマケ。
しかも、この当たり前の幸せは、自力では維持管理など出来ない不思議な物ばかり。
心臓の鼓動は自力ではない。ペースメーカーが有るけれど、心臓そのものは作れない。
太陽光線は作れない、日焼けサロンは作れるが、太陽が無ければ銀河系は壊れるし、太陽の位置が少し狂っても大変。
大切なものほど普段は意識しない物ばかり。
吉野家で例えたら
- 何気ない日常:牛丼そのもの
- 特別なイベント:トッピングの紅生姜
そのくらい日常は大切で、特別幸せそうなイベントは、おまけ程度、変化を持たせる程度だと思う。
もちろん、思考的に味わいのある人生としては、特別なイベントは大切だし、悲しいイベントも二元的に、幸せのために必須材料。
でも、本当に大切なものは、目にも見えない空気のように、普段、周りに満ち溢れている事ばかり。
最近の不運はトッピング
この視点で見ると、最近、落ち込んだ、ビジネスやプライベートの大問題も、牛丼の紅生姜なのかも知れない。
本当に大事な部分は、今までも、今も、そして、この先も、この肉体が滅ぶまで、変わらず身の回りに溢れているから、そこに気がつく為の、大切なトッピングだった。
将来失ったら?
日常の幸せを沢山書いたが、じゃあ、将来、その日常のどれかを失った時にどうするのか?
何かがある幸せなど、不安定で当てにならないか?
この点、そうでは無い、おそらく大丈夫。
実際になるまで断言は出来ないが。大丈夫だと思う。
例えば
脚を怪我したら?
脚の健康を失ったら、その変わりに、治療してもらえる感謝が現れる。
家族の優しさにも感謝する日々もなるかも知れない。
最悪死ぬ時が来たら
死ぬ時にそばにいてくれる最愛の妻に最後の時を感謝すると思う。
孤独死を迎えるなら?
家族を悲しませたり、不安にさせたりする事もなく、死ねる事に感謝すると思う。
全ての事は、感謝する側面があり、何かを失ったとしても、それによる感謝が現れる。
そう思える。
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