観照者の先にあるもの
赤枠の中の言葉は、阿部敏郎さんのブログから抜粋させて頂いたものです。
もし引用することに、問題があれば即削除など対応します。
阿部敏郎さんの公式ブログ かんながら 2021年04月10日の下記のURLが元記事です。
https://abetoshiro.ti-da.net/e11893618.html
—–ここから元記事のコピペです—-
瞑想とは観照者になること。
瞑想中だけでなく、ありとあらゆる事象の観照者でいること。
あなたは事象の登場人物ではなく、その現象を見守る者。
あなたは事象が映し出されたスクリーンそのものです。
自分とは何かを説明する時、僕もこのような説明を用いますし、似たようなメッセージは他でも見たことがあると思います。
特に映画のスクリーンへの例えは気に入っていて、そこにどんなドラマが映し出されようとも、スクリーン自体は影響されていないという話は分かりやすいと思います。
しかしこれはまだ十分な説明になっていません。
もう一歩先を行く必要があります。
でなければ、最終的な真理が誤解されたままになってしまうからです。
それは何か。
その前に、まずは観照する練習をいま始めるべきです。
これがスタートになります。
いま起きていることを現実だと信じて、その中で右往左往していた態度をやめて、すべてを見届ける側に回るのです。
いつも人生の中で主役を張っている自分のことさえも観客席から見ている感じです。
主役の思考や感情さえも外側に湧いている現象になります。
そうやって観照者でいる間は、あなたは物語に埋没していません。
このようにして事象から離れる時間は極めて重要です。
やがてあなたが参加していなくても、あなたを含めた物語は勝手に展開していくことを知ることでしょう。
その時、それまで抱えていた肩の荷がすべて下ろされます。
人生をやっているのは自分ではなく、すべては「起きている」という事を理解するからです。
観照者の先にあるもの
ここまでは何度かお話ししてきました。
今日は最後の仕上げをしましょう。
それは何かと言えば、
あなたは観照者でさえもないということ。
人生映画の観客でもないのです。
あなたという人が、出演者から観客に変わるわけではないのです。
観客はいません。
物見はいません。
観照者はいないのです。
あなたは観照者ではなく、観照そのものだから。
観照者というと、観照している何者かを連想してしまいますが、そのような人はいません。
観照という質そのものが万物を有らしめています。
それを「気づき」とか「意識」とか「認識」とかの言葉に起き変えることができます
何一つ分離していません。
あなたは分離した存在ではなく、存在の全てです。
全体が、分離したあなたという夢を見ています。
その夢さえも見届けているのが本当のあなたです。
もう一度言います。
あなたは観照者ではなく、観照そのものだということ。
これがどういうことなのか、心を静かにして感じてみてください。
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—–以上が阿部敏郎さんのブログより——
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