舌は舌自身を味わえない意味
よく聞くようなセリフです。
「ベロはベロ自身を味わえない」とか「目玉は目玉自身を直接見ることは出来ない」
これに関してふと感じた素人考察です。
スピ系の指導者系の解釈
なんとなく当たり前ですが、スピ系の凄そうな人たちの話によれば、自分が自分(自我)だったら、自我を意識することなど出来ない。
だから私は自我そのものではない証拠だと言われます。
ややこしいけど、確かに原理的にはそうなると思う。
だが、しかし、原理的にそうであっても、私は私だとしか感じられないのが実際のところ。
私が私自身を見ているとしか思えない。
つまり
自我=私だと実感中。
話を切り替えます
今日、ポチが発見した不思議。
痛み、深いは敏感な私、一方では痛くないはスルーしている私
私は、痛い、不快だ、そういう類は敏感に察知するのに、痛くない(普通とか心地よい状態)、不快ではない(心地よい)状態は知らないでスルーしている。
春とか秋の一瞬だけ、自然な気温が心地よくて、エアコンの暖房も冷房も不要な季節が短いけどある。
そんな時は何も感じてないのに、暑いとか寒いとかなると途端に気が付く私です。
胃が痛い時は、わかるけど、胃が痛くない時は、全くわからないでスルーしている。
幸せは見えなくて、不幸せは見える?
私は幸せは見えなくて、不幸せは見える。
不幸せな出来事を通じて、幸せを知ることが出来る。
なんか遠回しで、まどろっこしいぞ!
私は幸せそのもの?
上に書いた原理からすれば、私が幸せを直接見えない理由は、私が幸せそのものだから?
幸せが見えにくく、不幸せは良く見える。
これって、そういう事なのか?
しかも、幸せで快適な時の方が人生にはあふれている。
これからは、溢れている幸せを注意深く見て行きたい。
時には現れる不幸せは、これがないと幸せを忘れるからね。
と許容するか。
当たり前だけど
- 空気が吸える
- 足がある
- 手がある
- 食べられる
- 心臓が動いている
数えようとしたら、今ある幸せは数えきれない。