今朝の坐禅でふと、思った事。

坐禅、瞑想が心地良いのは何故か?
3.11前くらい?趣味として始めた当初は無になろうと努力して苦痛すらあった時間だったような?
それがいつの間にか心地よい日々の大切な時間になってた。
改めて、今の時点で、坐禅や瞑想と、日常の精神で、その違いを眺めると、こんな違いを感じました。
今の時点でと前置きした理由ですが、坐禅、瞑想が日課になってから、思考(現実)の見え方が時々変化する(旅の景色のように)ので、今の時点で感じたことも、この先いつかは、また違った景色に見えているはずだと思うので。
- 「思考が我がもの」としてあるのが日常。
「思考が他人事」に見えるのが坐禅。 - 「頭の中の思考に過ぎない事が見えてない、夢の中にいる事が分からない状態」が日常生活。
「今ここにリアルにある現実、感覚だけ見つめる」坐禅。 - 「思考は私が行っているつもり」の日常
「する私は不在で、思考そのものだけがある」坐禅。
つまり、坐禅、瞑想が、退屈な時間ではなく、心地よい時間になって来た訳は、「私」の存在が消えて、思考が消えなくても他人事、ラジオのようになって深刻さが無いからだと思います。
仮に実生活で深刻な悩みを抱えてたとしても、坐禅中、その事を考えてなければ、その悩みも消えているし、考えている私が実在ではなく、それすらも単なる思考であることを理解している状態だから。
目次
まとめ
日常は私の視点で、坐禅は私も観られる側、単なる思考に過ぎない視点。
思考を思考として観ている視点。
心地良さは、日課としてやめられません。