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坐禅と引寄せ

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引き寄せの法則って嫌いだった

数年前からブームの引き寄せですが、実は私は避けてました。

今は、興味あるのですが、その変化について。

わたしとは?

坐禅と瞑想をする生活になって長くなり、私という感覚は単なる記憶、思考に過ぎない。
そう感じるようになって一年くらいになりました。

  • 私が思考するのでは無く、思考だけが湧く。
  • 私が坐禅するのでは無く、坐禅の肉体がここにある。
  • 私が不安なのじゃ無く、不安だと思う思考がある。
  • この肉体の中に、私が入っていると信じて来た。
  • だから肉体=私だと信じて来た。
  • けど、私は実在では無く、肉体を守る為の自動ジャッジのプログラム=自我=思考=記憶の集大成でしか無い。
  • 思考が湧いたら、意識がそれを見ている。

と思った瞬間、それも単なる思考になる。認識したと思ったら、理解したら既に思考。
これら全ての思考の出入りを、一切の判断、好き嫌いも無く、ただ、ずっと見ている意識がある。

私=思考=言葉=記憶

私って存在は、単なる思考が作り出す頭の中の幻想。

その証拠に、私の自己紹介をすれば、過去の記憶ばっかりで、障害が出たりして記憶を失えば私の過去も消えて無くなる。

単なる過去のデーターが私と言う証拠だと思う。

だから引寄せ嫌いだった

私は最近まで「引寄せの法則」は嫌いでしたが、その理由は上記のような「私」と言う思考を見つめる事に専念していたからでした。

何かを引き寄せようとする、その私は自我であり単なる思考であり、わたしの感覚から離れて、意識の視点で俯瞰しようとする坐禅道とは反すると無視して来ました。

どうしたって、「引寄せの法則」は、凝ったら最後、ますます自我と意識の同化を強化してしまうと思ったからでした。

そう偉そうに言っても

ここにも落とし穴がある。

意識の視点になろうと目指す、俯瞰しようと目指すのも、望みを叶えたい思考。

私の希望、自我の希望に違いはない。

これは実在しないはずの私を主体として、私が意識の視点を目指す。意識の視点で在る状態を引き寄せようとする行為になってしまう。

  • 「大金や豪邸や外車」など物的な商品を引き寄せたいと思う一般的引き寄せ
  • 「意識の視点」と言う精神的な見えない物に置き換わっただけで、目指す事に違いない坐禅

同じ自我の欲望に向かう自我の行為としては違いない。

坐禅のジレンマ

「さあ今日も坐禅しよう」と思うのも私(思考)である。

「1時間坐禅したタイマーが鳴ったから終了しよう」と思うのも私(思考)である。

悟りたいと思うのも思考であり私。

坐禅するにも、私が何かを(具体的には覚醒体験)目指している。

長い事、その思考にだけは(当たり前すぎて)気が付かないでおりました。

坐禅が教えてくれた

でも、ちょっとでも理解したら、気付いたら思考であり、意識はその全てを観ているだけで、徐々に思考の連鎖から抜ける坐禅になって来ていた。

  • 思考が認識しないと何も無い。
  • 花を認識するのも思考。
  • 空を認識するのも思考。
  • 私を認識するのも思考。
  • 幸せ、不幸、恥ずかしい、悔しい、素敵、ボロい、思考がそう認識する前は何も無い。
  • 勿論、悟りも、坐禅も、思考による認識があればこそ。
  • 思考があるから悟りを望み、悟れてない私が出来上がる。

辛い時こそ坐禅

私=思考が無ければ、大恥も無い。

私は幻想で単なる思考。

恥ずかしい感覚があっても、恥をかいた私は居ない。

「恥」なんて単なる言葉に過ぎない。

恥ずかしいと考える事を客観視、離れた視点にシフトするだけで、他人事になる。

思考は他人と同じ

思考さんが恥ずかしがってる

思考さんが不安がっている

思考さんが悩んでいる。

この思考さんを私自身だと思うから深刻になる。

配偶者が浮気したら?死ぬほど辛いけど、その思考から離れて眺める視点になれたら笑えるのかもしれない。浮気されるなんて、実際にその時にならないとわからないが。

引寄せと坐禅は共存かも

引寄せの法則には、坐禅の視点も必要?

そんな気がして興味を持ち始めたのが最近の事。

引寄せの法則が不可能とも言われる理由

引き寄せたいと思った時点で、隠れている本音がある。

  • 「私はそれが不足している」
  • 「私はそれを今は持って無いから欲しい」

思考が現実化すると教える引き寄せの法則なのに、やろうとすると、本当の思考としては

不足している、持っていない こっちが現実化するに決まっている。

車が欲しい。車を引寄せたい。

その願いは何故出たのか?

それは車がないから。

隠れた本音が引き寄せの法則をそのまま発動するらしい。

これだと、車がない=不足感覚が引寄せの動機になるからダメらしい。

不足の実感が引き寄せるのは、不足の現実。

この引き寄せの法則のジレンマは、坐禅のジレンマにそっくりじゃないか!

でも、最近の坐禅は、坐禅して何かを目指す状態では無く、一気に目的地の坐禅に入るようになって来た。

もしかして、引き寄せの法則も、坐禅のように、一気に目的地に入れば良いのかもしれない。

  • 坐禅の目的地は私の不在。目指す私を通り越して、一気に不在に入る。入ろうとする私が消えたから入っている。
  • 引き寄せの目的地は不足の不在。不足を追い越して、既に持っている感覚に入る事が出来たら?

坐禅の経験から思考を客観視は慣れて来たので、不足の思考を敏感に察知して、満足の思考にフォーカス出来たら良いのかも?

しかも、この満足感の思考、感覚にフォーカスしようとするのは、間違いなく坐禅と似ている、思考から離れないと無理だと思う。

ちょっと引き寄せの法則を実験してみようと思う。

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