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心配ごとのある人は明日以降も生きられる幸せな人だからこその悩み

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もし、病や怪我で、明日は生きてないと思う時には、

お金の心配も、子供たちの将来も、何もかも心配しなくなる。

そんな事を言うと反論に合いそうなパターンは

「死ぬからこそ、残される家族の今後が心配なのだ。」

と言われそうだが、ホントに死ぬ直前に実際に来たら、そんな反論は無いと分かると思う。

この話をもう少し、厳密に言えば、今日で自分は死ぬだろうと覚悟した場合には、それを避けられないと受け入れて、全て諦めた時。

子供の将来を気にかけたくても、どんなに子供の将来を気にかけても、もはや、明日いない自分には、何も出来ない。手も足も出ない。

と降参した状態になるから。

子供達の将来をどんなに心配した所で、明日生きてない自分には、もう、子供達に何もしてあげられないから。

「手も足も出ない」とは、正に、この事だと知る事になるのが、ホントに死を覚悟して、死を受け入れざるおえない時の心境。

子供の将来を懸念している間は、まだ、なんとかしてやれるかも?と自我は諦めてない時。

死が、とても怖くて焦っているのは、まだ生きることを諦めてない、降参してない状態だからで、死を受け入れてしまえば、今生きているがあるだけになる。

実体験から

上に書いたことから、知ったような事を生意気に言うな!とか、死んだ事もないクセに!とか、あるいは、今日死にそうなのか?

と聞かれそうだけど、今日は大丈夫。死なないだろう自信はあります。

実は以前に、ホントに死にかけた事が何度か有り、その時に、ホントに死を受け入れる覚悟をした時に、本当に諦めた時、降参した時に、自我が何も出来ないと諦めた時、思考が停止、穏やかに痛みを感じるままになった経験から書いてます。

普段の自我は、自分や家族を守る為に一生懸命に頑張っている(つもり)。

だから、先を心配して、なんとかしようと頭の中で努力しようとする。

それが自我であり、しようとする思考そのものが自我で思考だから。

この先は無い、もう何も出来ないと降参すると、自我にすべき仕事は何もない。

すると、心配も消える。

自我がすべき事が消えると不安も消える。

すべき事が思考そのもの、思考が自我だから。

何とかすれば、この先も生きられると思うからこそ、心配したり、何とかしようと努力する思考が現れる。(思考=私が現れる)

不安なのは幸せな証拠

なので、今、不安なら、それを証拠に、幸せに気付くべき。

今、生きている、たぶん明日も生きている自信を持てる健康はある。

心配ごとをする余裕があると言う事。何とか出来る余地があると信じてる証拠。

何より大切な物がある証拠

お金があろうとも、地位があろうとも、素敵な家があろうとも、明日も生きられる身体が無ければ、自我には全くの無意味。

1番大切な物は、明日も生きられる身体だけ。

明日も生きられる身体と、身体が生きる為の空気や太陽など、いつも意識すらしない当たり前の目に見えてなかった環境。

明日も生きられる身体とは心臓が動き、呼吸できる当たり前すぎる事。

でも、この大切な事は、何一つ、自我にはコントロール出来ない事ばかり。

心臓も動かせない、呼吸も動かせない、太陽と地球の関係も自我には何も出来ない。

1番大切な事は、自力ではない。

自力で生きてゆこうと不安や悩みを深刻に考えている自我は傲慢なのかも知れない。

自我の存在感

自我は確かに生きていて存在する実在だと思うけど、そもそも、私とは、単なる単語、言葉に過ぎない。

私の名前はあるが、名前すら、親や他人から、お前は〇〇と言う名前だよ。

と言われただけで、単なるラベルに過ぎない。

これは東京都と言う地名が、単なるラベルで、東京都の境界線も、単に昔の権力者が決めた架空の境界線に過ぎないのと似ている。

鳥、犬、ネコには東京都なんて無いし、元から地面にも空間にも境界線もない。

実在とは言えない架空の私。私がいるから、私以外がいる。

大切な人がいる、護りたい人がいる。だから邪魔者も出来る。

私が居なければ悩みも消える。そう一瞬確信するも、この肉体の感覚が、私の存在感を、長年の私の記憶を身体に纏い、私プログラムが再起動する。

まだまだ、坐禅時間が憩いの時間。

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