目次
マインドフルネスに興味
世の中はマインドフルネスとか言う言葉が知られ始めていた。
世界のリーダー的な人たちが禅や瞑想に取り組んでビジネス界で成果上げ始めているので、ビジネスマンに対して坐禅や瞑想が怪しい宗教ではない感じになって来た。
私もこれ幸いと、人に理由を聞かれた場合は、その手の流行に乗って話せるようになっていた。
実際のところ、それは嘘ではない。
だが、本心は違う
ビジネス成功のためとか言う理由は嘘ではない。
だが、本当の本当は、ちょっと違う。
怪しい人に思われたくないから隠している本音がある。
悟りたい
本当の本当は、人目を気にしないで答えるなら、私は悟りたい。
悟りの境地に至るには、色々なアプローチがあるらしいけど、坐禅や瞑想がメジャーらしい。
これをやっていると悟れる確率が上がるっぽい。
何故 悟りたい?
悟りを開いたと思われるスピ系のリーダー的な人たちの著書や動画を見ると、達観していて人生の悩み苦しみが無いように見えた。
実際には人生上のトラブルは消えることはないが、そのトラブルに一喜一憂されないような境地に至っているらしい。
幸せになりたい
坐禅瞑想する以前は不安だらけ
私が坐禅、瞑想を趣味として生活し始めた頃は、一日大半の時間帯に不安が占めていた。
- 来月の売り上げは大丈夫だろうか?
- 次回の尿検査のデーターは?
- ライバルに負けないか?
- 仕事が減らないか?
- 仕事が増えたら対応力が間に合うか?
- 社員を増やさないとダメか?
- 社員を増やせば仕事も増やさないと
- 仕事が増えたら社員が足りない
- 設備を増やしたら故障の確率も上がる
- 設備を増やさないと故障した場合に何も出来ない
悟れば救われるはず
上記リストのように、人生のあらゆる部分に不安があった。
先の予測が出来ない事ばかり。国家公務員じゃないので、仕事もお金もどこで無くなってもおかしくない。
悟りを開いた人は、私(この個人)が消える
調べた事によれば悟った人は、私が消えて全体しか残らないらしい。
- 来月の売り上げ心配する私が消える
- 自分の健康を心配する私が消える
- 老後を心配する私が消える
全ての不安、悩みの元は、私である。
その私が実在ではなく、幻想だと確信するのが悟りらしい。
不安の元凶である「私」が幻想だと確信したら最強だと思った。
坐禅、瞑想10年以上
坐禅、瞑想を初めて見て、徐々に日常の当たり前の一部分となって行き、朝5時から一時間。夕方も4時から一時間。
嫌ではなく、むしろ至福の時間として習慣になって行った。
その習慣が10年ほどになった。
坐禅、瞑想の教師と言われる人の伝授も有料で受けてみたり、講演会にも行ってみた。
たくさんの書物も読んだ。
悟れない
坐禅、瞑想を習慣として10年で知ったのは、
悟りは努力しても無駄らしい
何をやったか?では到達しない、脳の故障など、偶発的な事で、「私」「自我」「思考」が停止して悟りの境地になるらしい。
しかも、一回の偶然では、数日で元の人に戻ってしまう。
悟り体験を何度か繰り返して、やっと悟ってゆくらしい。
とりあえず最初の一発の偶発的な思考停止が悟りの決定打で、
坐禅、瞑想、ヨガなどは、本当の悟り体験には無駄らしい。
どうりで私は10年間、1日に2時間、それを365日休まず実行しても悟れないはずだ。
私だけじゃない。
この手の趣味に没頭している諸先輩も沢山講演会に来ているけど、私より熱心だけど悟ってないらしい人が大半だ。
悟りの決定打は偶然だとすれば、努力しても無駄なはずだ。
そもそも、私を消したいと坐禅している
「私」を消したい だから坐禅する。
この時点で
消えたいはずの、その「私」が頑張っている
パラドックス
アクセルから足を離し、エンジン回転数(思考エネルギー)を下げて行くのが坐禅だとすれば
坐禅を頑張ろうとする私は、アクセルを踏み込む。
このパラドックスは私(自我)自身には解消できなかった。
絶望して弛む
パラドックスを抜けるために、ただ座れ、と坐禅の師匠から言われて、ただ座る日々に邁進している内に、絶対に無理だと絶望して諦めた時が来た。
その瞬間に、私が脱力して突然静かになった。
思考の隙間が見えて来たら、意識の視点が思考(私)から離れて、同化しなくなった。
坐禅は至福の時間
悟れないと知った後も、坐禅、瞑想を辞めることが無かった。
その理由は、坐禅や瞑想の時間帯が至福の時間だから。
悟りと言う目的が消えて、ただ、座る事自体が坐禅の目的になっていた。
坐禅が至福の時間だから座る。
そんな至福の坐禅時間を継続して来たら、あら不思議。
当初の目的は達成されていた
不安だらけの人生は嫌、幸せになりたい。
そこだけは知らないうちに目的達成されていた。
覚醒は出来てないけど、坐禅、瞑想で、私の回転数が落ちて、思考が静かになって、私と意識の距離が見えていた。
不安がる思考(不安だと言う私)も、少しだけ離れて眺める。
すると、隣の爺さんが不安だと訴えているようになる。
他人事になると、不安が薄れる。
不安が薄れて来たら
身の回りに溢れているありがたい事が沢山見えるようになった。
ありがとうが沢山だから、既に幸せになっていた。
覚醒に対して私の結論(個人的結論)
覚醒体験が目的だったら、坐禅、瞑想しても無駄。覚醒は、たまたま偶然だから。
(厳密には偶然はなく、その人のプラグラミンぐ通り事が起きているらしいが、それこそ自力では変わらないし)
しかし、幸せが目的であれば、坐禅、瞑想は効果的。
何故ならば、不安だと言う私(自我、思考)から離れるので、不安だと騒ぐ自我は、隣の爺さんのような存在になってくるから。
肉体を守って生きる以上は不安皆無なんて有り得ないけど、それでも不安に同化せず、隣の爺さんのように見る視点。
自我を自我さんとして見る視点は人生が楽にはなる。
坐禅、瞑想は、覚醒するツールとは言えないけど、幸せが目的地なら無駄ではないと思っている。
悟り願望は消えたか?
当初、
悟りたい理由は、
幸せ、安心だった。
この目的は悟らないまま
既に達成されている。
概ね達成されている。
概ね達成と書いたのは、やっぱりトラブルの重傷度合いによっては、結構大変な心境になるので、その心境に同化するのは辛い時がある。
覚醒した人は、そんな時にも大丈夫かもしれない。
そんな訳で、やっぱり悟ってみたいなあ。と今でも思っている。
当初の覚醒願望との違いは、
今すでに幸せだから。
たまたま偶然に私も悟る事があったら嬉しいなあと。思っているだけ。
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