目的地がここだった

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坐禅瞑想の目的地とは

最初に勘違い防止の前置き

目的地はここだった。

なんて意味深な題名でも、覚醒体験ではない。

凡人なりに、単純な事に気が付いただけの話です。

今ここを探しているのに、いま以外を探してたから見つかる訳が無かった。

そんな馬鹿馬鹿しい話です。

実に、当たり前の話です。

私の坐禅の目的地が、ずっと遠い先だと思っていた。

そこにいつ到着するのか?
と坐禅が上達した先を目指して、連日、早朝5時と夕方4時に1時間づつ坐禅してました。

そのような先を目指す事自体が坐禅としては勘違いだった。
今、すぐ、この瞬間から今に寛げば良かった。
特別な景色や体験を待つ必要など無かった。

今ここって何か特別なイメージを探してた。
でも、どんな今も間違い無く「今」。

怒っている今、楽しい今、寒い今、暑い今、意識の空間の中に、湧く色んな思考や感情、そして感覚。

どれも今この意識の中に現れて消えて行く点では変わりない今。
この先、もし、不思議な何かを体験しても、それも同じ今。

今の意識の中に現れて消える。
あくまでも私の坐禅瞑想の目的地は今にあった。
あっちこっちに思考と共に飛んでないで、今を感じるだけ。

昨日までは、何か覚醒体験みたいなことを目指して、そんないつあるか?又は無いかも知れない妙な体験を空想し求めていたから、探し物そのものである「今」を蔑ろにして、今の私ではない特別な私を目指して日々を過ごしてました。

目的を履き違えて、今を感じる暇も無い程に、未来の不思議体験を待ってました。

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